Introduction
全編エチュードで構築された奇跡の123分
まったく台本のない映画。
原案は20年前に遡り、すでに同タイトルであった一枚のプロット。
「兄を失った妹が、兄の8mmカメラで映画作りに奔走する」というストーリー。
この「軽やかに地平を狙え!」は、ハリウッド、タイ、香港、中国、韓国との共同作品を含め、70本を超える商業映画をスタッフとして支えてきた、瀬戸慎吾監督の初長編作品となる。
映画の撮影に先立つこと15年前、瀬戸監督自ら8mmフィルムカメラを手に、カンボジア単独ロケを敢行。地雷原のドキュメント撮影を行った。いつか映画化する、その中で使用されるフィルムとして。
そして2015年、静岡県伊豆市土肥に初めて訪れた縁で、旧小学校の校庭に立つメタセコイアの木にツリーハウスを建設。海と山に囲まれた夏のその地を舞台に、日本映画界の実力スタッフ・キャストが集結し、本作は誕生した。
撮影は「ラヂオの時間」「高校教師」「デスノートthe last name」 など、日本の撮影監督システムの牽引者であり、デジタル撮影の第一人者でもある高間賢治。
出演に、数々のCM出演と舞台で活躍する浅野千鶴がヒロイン瞳を演じ、淡い恋の相手となる郵便局員 正を安木一之、亡くなった兄を「テルマエ・ロマエ」など多くの作品に出演する宍戸 開、瞳を応援する市役所職員役として「カンブリア宮殿」のナレーションなどでも活躍する高川裕也、瞳の母として、惜しまれつつも2016年に急逝した、歌手であり女優のりりィが出演。また主題歌「あなたのLegend」も描き下ろし、Lily+Yoji with Crewとして、本作に深い印象を残している。
解 説
『軽やかに地平を狙え!』という祝祭
皆川ちか Chika MInagawa
自宅のリビングルームのソファで昼寝をしている若い女性、瞳。そこへ電話がかかってきて、亡き兄が廃校となった学校の校庭に建てたというツリーハウスの存在を告げられる。兄の荷物を引き取るために瞳は現地へ向かい、生前の兄が最後に住んでいたその土地で、ひと夏を過ごす――。
本作品の舞台は静岡県伊豆市の土肥という町だ。すぐ近くには海があり、山もあり、劇中には温泉の観光案内標識も出てくる。避暑地にはうってつけの土地柄だ。折りしも時期は夏。舞台といい、季節といい、ツリーハウスというアイテムといい、本作にはどこか夏休みの雰囲気が漂って、そのゆったりとした空気感が独特の心地よさを生んでいる。
蝉がにぎやかに鳴くなかでバス停を降りた瞳は、立派なコンクリート造りの小学校跡地に足を踏み入れる。
彼女を待ち受けるのは、森のように立派な木々が生い茂っている校庭に、存在感たっぷりに佇んでいるツリーハウスだ。しかも樹齢40年の大きなメタセコイヤの木が、床と屋根をぶち抜いて、ツリーハウス自体を守護するかの如く背後にそびえている。
このツリーハウスが行政によって撤去されるのを食い止めるべく、生前の兄をよく知る土肥の人びとと共に瞳は映画を作ることにする。
この映画は台本というものを使わず、設定とシチュエーションを俳優たちに説明したうえで自由に演じてもらうという、いわゆる即興演出の方法を採っている。台本がないだけに各シーンで彼らが見せる表情や反応、発する言葉は生き生きとして切実だ。
例えば、昔、東京で役者をしていた市役所職員・金刺が、廃校の体育館で瞳と会話をする場面。どうして俳優をやめたのですか? と尋ねる瞳に、彼は、役者として思い悩んでいるときにふらりと帰省したら、ここの人たちが止(と)めてくれたのだと語る。
「そこで、止まるのも悪くないなと思ったんです。“人が動かしてくれる”とはよく言うけれど、止まるのも悪いもんじゃない」と。
それを受けて瞳も「私もです」と微笑む。
劇映画というよりもドキュメンタリーのような、それでいて劇映画以外のなにものでもないような、そんな登場人物たちの細やかな感情のゆらぎを掬いとって物語は形づくられていく。
紆余局席を経て映画は完成し、ツリーハウスでの上映会にこぎつける。地元のたくさんの方が観にきてくれ、楽しんでくれて大成功に終わる。そうして瞳の夏は終わっていく。おそらくツリーハウスの存続は叶わないだろう。亡くなった兄は戻ってこない。瞳は土肥を離れて自宅へ、母の待つ家へ、兄の形見と一緒に帰っていくことだろう。映画作りに参加したみんなもそれぞれの生活に戻り、日常が再開する。
ラストシーンで瞳たちは廃小学校の校歌を合唱する。歌い終えたときがこの映画の終わりであり、彼女たちの祝祭も終了する。人生がそうであるように、映画も祭りもいずれは終わる。実際にこのツリーハウスも、この小学校も、本作の完成後に解体されてもうないという。兄の思い出としての劇中の映画作りはそのまま、瀬戸慎吾監督が本作品を作った思いにも重なっているはずだ。
フィクションとノンフィクション、物語と現実世界が重なりあい、互いに影響を与えあい、今このときだけの寿ぎ(ことほぎ)が本作には鮮やかに醸し出されている。そして祝祭が過ぎ去っても、思い出は残る。映画という形となって伝えられ、観た人の心のなかで生き続けるのだ。